昨日たまたま「ある人」とお話していたとき、
その人が言ったこと。
「本で読んだもはー、本で。ドラマなの見ねー」
(本で読んだもん、もう。本で。ドラマなんか見ないー)
という前置きのあと。
「ああいう代理母ってよ、なんぼ遺伝子は両親のものって言ってもよ、
お腹で育てて栄養けで血通わせんのってあの外人のほうなんだじぇ?
それって純粋に日本人のほうの子供だって言えるど思うが?」
(ああいう代理母ってさ、いくら遺伝子は両親のものって言ってもさ、
お腹で育てて栄養あげて血を通わせるのってあの外人のほうなんだよ?
それって純粋に日本人のほうの子供だって言えると思う?)
その言葉をきいたときには、
ほほーっ、そーゆー考え方もあるかぁ。
と思ったけれど、
でも子供に恵まれない人たちにとっては
いくらお腹が違うといっても自分の分身であることには変わりないですよね?
苦労なく妊娠できる人は
「あたしの友達でもよ、
七年ぐらいも不妊治療してよ、
ほんでもでぎねくて、
もういいがぁってあぎらめだどぎに子供でぎだんだっけ。
がんばっと子供ってでぎねくて
がんばるのやめっどでぎるんだずね」
(あたしの友達もね、
七年ぐらいも不妊治療してね、
それでもできなくて、
もういいかぁってあきらめてときに子供できたんだっけ。
頑張ると子供ってできなくて
頑張るのやめるとできるんだよね)
と事も無げに言いますが、
その「頑張るのをやめる」(=期待するのをやめる)ことが
子供を望む人間にとってどれだけ遠いところにあるものなのかわからないんでしょうね。
ドキュメントドラマの番宣を見ていて思い出したので
書いてみました。
ちなみにわたしもこのドラマは見るつもりはありません。